ニコピン先生こと葛原𦱳(しげる)

 

葛原 𦱳(しげる) (1886年~1961年)

 

 葛原 𦱳は明治19年(1886年)、広島県安那郡八尋村(現福山市神辺町大字八尋)に、父二郎、母いつの次男として生まれました。祖父は盲目の琴の名手、葛原勾当です。

 明治36年(1903年)に広島県立福山中学校を、明治41年(1908年)に東京高等師範学校を卒業し、明治42

年(1909年)に現東京都千代田区九段にあった精華学校初等科訓導として初教壇に立ちます。以後、女子音楽学校、跡見女学校、私立九段精華高等女学校など多くの教壇に立ちながら、出版社の同文館、その後博文館にも勤めて、当時の人気少年雑誌「少年世界」他の編集に携わり、同時に童謡の発表も行いました。

 

 𦱳の代表作には、広く知られる「夕日」があります。この詩は最初「きんきんきらきら」でしたが、小二の長女に「夕日は『ぎんぎんぎらぎら』でしょう」と言われて変更、大正10年(1921年)、室崎琴月作曲でレコード発売され、全国的に有名になりました。

 昭和20年(1945年)、30年間勤務した九段精華学校・九段精華高等女学校が戦火で焼失し、廃校になって八尋に帰郷(疎開)しました。

 昭和21年(1946年)、私立至誠高等女学校(現広島県立戸手高等学校)の校長に就任し、昭和35年(1960年)、勇退するまで郷土の女子教育にも尽力しました。同年、ふたたび上京し、文京区西方町の旧宅での生活を始めるも、昭和36年(1961年)12月7日、母校の東京教育大学構内で倒れ、75歳で永眠しました。生涯に作詞した明確なものとしては、童謡は2,500以上、校歌・社歌・音頭等は550以上です。

 

 「いつもニコニコピンピン」をモットーに、周りからは「ニコピン先生」と呼ばれ、親しまれました。童謡を通して、教育一筋の生涯でありました。

 

 

ニコピン先生の略年譜

葛原𦱳の童謡 つまり『ニコピン童謡』のエッセンス

児童雑誌「赤い鳥」から始まったとされる童謡
 童謡のことですから、初めに「赤い鳥」の童謡の話から始めたいと思います。
 大正7年(1918年)7月1日、鈴木三重吉によって童話・童謡の児童向け雑誌「赤い鳥」が創刊されると、子どもの歌は正に「童謡」として大流行します。
 三重吉は広島市生まれ、夏目漱石門下の小説家で「千鳥」「小鳥の巣」「桑の実」などの作品が有名です。しかし、大正4年頃からの準備期間を取りつつ、大正デモクラシーの中の子どもへの関心の高まりという時流を見ての文学的運動家、雑誌編集者、出版事業家としての才をあらわした雑誌「赤い鳥」の創刊でありました。
 雑誌「赤い鳥」の創刊以来の子どもの歌は童謡と言われ出したので、ここでは便宜上、それらの童謡を「赤い鳥童謡」と表現いたします。赤い鳥童謡の特徴の中心は、童心主義(子どもの純真無垢さを理想とする考え)と芸術性と思われます。
 

 この童謡の作詞を中心的に担っていたのが、三大童謡詩人と言われる北原白秋、西條八十、野口雨情ともう一人、葛原𦱳であります。この四人はまた童謡四天王と呼ばれることもあります。白秋は三重吉から「赤い鳥」の童謡部門を任され、以来童謡の旗手としての活躍はすばらしく、その歌は子ども達の自然な感情を捉えたリズミカルで開放的なものが多くあります(有名な曲/雨ふり、ゆりかごの歌、まちぼうけ)。八十も三重吉から誘われた一人で、童謡にも詩としての芸術性を第一に求めた詩人であり、都会的で洗練された世界を展開しました(有名な曲/かなりや、毬と殿様、肩たたき)。雨情は児童雑誌「金の星(金の船)」で活躍した詩人であり、童謡を民衆や教育者へ普及することに力を注ぎました。また歌は大衆的であり、特に作曲家・中山晋平と組んだヒット曲が多くあります(有名な曲/七つの子、赤い靴、しょじょ寺の狸囃子)。葛原は子どもの最も近くに居た童謡詩人と言われ、その童謡は「ニコピン童謡」と呼ばれました。特徴として子どもが楽しく歌えて歌い易い歌が多くあります(有名な曲/夕日、とんび、ニコニコピンピンの歌)。

 

「ニコピン童謡」とはなに? 「赤い鳥」創刊までの道のりは?
 ところで、「ニコピン童謡」とは一体どういうことなのでしょう。
 『「いつもニコニコ! いつもピンピン!」これは、私が大きくなってコドモ党としてのみならず、人間としての唯一の旗じるしです。「ニコニコ」は円満です。「ピンピン」は進取です、活動です。私の童謡は、やはりニコニコピンピン童謡です。』と自著童謡集「こんころ踊」に書いています。こうしたことから葛原の童謡は「ニコピン童謡」と呼ばれ、自身もそう呼んでいます。

 それでは「ニコピン童謡」の正体を探ってみましょう。
 その前に、童謡と関係の深い学校の教科としての唱歌の事に少し触れさせてください。学校唱歌は明治時代の教育改革の中、子ども達の音楽・歌として幼稚園、小学校などで大きな課題となります。そこで、明治15年(1882年)からは特にアメリカ人音楽教師・LWメーソンと文部省役人・伊澤修二が中心となった唱歌教科書「小学唱歌集」の刊行が始まり、そのすぐ後、作文、算数、体操などと共に教科としての「唱歌」となって更にクローズアップされて来ます。
 東京音楽学校(初めは音楽取調掛)の創設以降は、日本の音楽の大幅な西洋化が進み、瀧廉太郎などの優れた作曲家が現れる中、学校唱歌はその近代化を速めて行きます。そして明治の終りから大正の初めにかけての文部省編纂となる、今も多くの人が愛唱する「尋常小学唱歌」(春の小川、我は海の子、ふるさと等120曲)へとつながります。
 
 さて、「ニコピン童謡」に戻りまして、「赤い鳥童謡まで」の道のりを簡単に追って行きたいと思います。

 前述の文部省編纂の「尋常小学唱歌」づくりが丁度始まったころ、「ニコピン童謡」も本格的に始動します。それは、「赤い鳥」創刊の7~8年も前のこと、東京高等師範学校卒業後、東京九段にあった私立精華学校初等科の先生を兼務しながら児童雑誌「小学生」の編集者になった時からであります。もともと東京高師時代から子どもが好きで、文学が好きで児童文学にとても興味を持ち、また祖父に「葛原勾当」という大変有名な筝曲家を持つことなどから音楽好きで高師の大塚音楽会という部活でも大変活躍していました。
 ある大きな夢をもって就いた小学教師と児童雑誌「小学生」編集者であります。雑誌編集では自由に自ら子どものためのペンを執り、編集し、子どもの歌=唱歌(当時は学校以外を含めてそう呼ばれることが多い)も作曲家の音楽仲間を得ながら雑誌に載せ始めます(初めて公表した曲は「兎と狸」/小松耕輔作曲)。それは児童雑誌編集者に専念し、大正元年(1912年)に博文館の「少年世界」等の児童雑誌編集者へ転職してからもニコピン度を増しながら続きます。

 

 葛原の子どもの歌は、学校唱歌よりもっと子ども達が喜んで楽しく自分たちの「歌」として、家庭でも歌いたいと思う「歌」を目指しています。また、今までは外国の曲に日本語の歌詞を付けたものもたくさんありましたが、葛原の気分は「あくまで日本の歌、日本の曲としていささかでも次の時代の国民の中から「日本の音楽」を生み出すための棄石ともなるならば」と記しています。

 先駆的に新しい唱歌づくりに取り組んでいた東京高師付属小・中学校先生の田村虎蔵(東京音楽学校の教授等兼務時期あり)、東京音楽学校教授の吉丸一昌の影響も受けながら、「当時はそんな歌がないので、少ないので挑戦したい」と言っています。作るのは文学の詩ではなく、あくまで音楽としての歌詞、歌うための歌詞との捉えだったと思えます。


 大正4年になると、前述の雑誌などに発表していた子どもの歌などを集めた「新唱歌集」に続いて、音楽仲間である小松耕輔、梁田貞(二人とも東京音楽学校卒の音楽家)が作曲し葛原が作詞した子どもの歌を「大正幼年唱歌」という楽譜集(全12集、大正7年完成、ニコピン童謡を最初に体現した童謡集)として刊行し始めます。その頃、小松、梁田、葛原、三人の歌づくりの会は毎週欠かさずに行われたと言います。なお、ここに出てくる音楽家はここまで未登場の弘田龍太郎を含めて全て東京音楽学校関係者です。東京高師、雑誌編集に身を置いていたための人脈と思われ、葛原の人間力からのように感じられます。このすばらしい音楽仲間が出来上がって来たことが大きなポイントと言えるでしょう。
 この頃の葛原の子どもの歌づくりの特徴を拾ってみると、①子どもが興味を持ちやすい題材ばかりを選んでいる。②年齢層ごとに内容を変えている。③歌詞はとにかく子どもが十分理解し得る言葉を使用する。例えば、幼稚園用では「菜の花ゆらぐ」は「菜の花うごく」にするなど、かなり徹底している。➃擬声語、擬態語をよく使用する。⑤メロディーやリズムはアクセントを考慮しつつも、歌い易さ、明るさに気を掛ける。などとなります。
 

 因みに楽譜集「大正幼年唱歌」のうち当時よく歌われていたのは、「電車」(ちんちん電車がうごきます ごうごうまちのまんなを・・)、「お客様」(ゴメンクダサイ ハナコサン タイヘンオサムクナリマシタ・・)、「噴水」(お池の噴水おもしろい ひつきりなしに水柱・・)、「あられ」(こんこんこんこんあられがふる ぱらりぱらり こんこんこんこんこん・・)などで、今までにない唱歌=子どもの歌を世に問い、大いに受け入れられたのであります。当時、これだけの成果を上げるというのは、民間人として初めての事でしょう。

 

「赤い鳥」創刊後のニコピン童謡はどうなる?  
 次に、大正7年と言えばその前年、博文館を退職したとは言いながら、他社を含めた子ども向の雑誌や自著本と文筆も盛んだった頃にあたり、赤い鳥童謡の大きなうねりに対して葛原は、一体どのように向き合ったのでしょう。
 子ども達の周りに子どもの歌がいつも一杯になるよう望んでいたのですから、きっと赤い鳥童謡の出現を歓迎し、喜んだと思います。仲間が増えた、自身の歌づくりも勇気付けられたと感じていたかも知れません。また、童謡と言う表現にも子どもの歌という意味では同じだとして、余り抵抗なく受け入れているようです。後年、当時のことを葛原は「子どもの歌が余りに芸術味を遠ざかり過ぎて、余りに子どもにおもねるようにさえなって、詩人たちが童謡を作り出した」と述べています。
 

 葛原の歌の歌詞や作風が大きく変化することはありませんが、意識はしています。それは赤い鳥童謡の持つ、童心性は元々葛原は持っているもですから良しとしても、芸術性、即ち詩の香りが強すぎては、果たして子ども達に本当に喜ばれているだろうか、向いているのだろうかと大いに心配しているのです。そして、本や雑誌に自身の童謡論=ニコピン童謡論を載せるようになります。
 その中身は、今まで通りの全くの子ども目線に徹した平明と単純を中心として少し色付けしたものです。特に童謡の歌詞が詩的要素の強いものには大きな批判をしています。子どものオモチャでもある童謡を大人のオモチャにしているではないかと。八十の「お菓子の家」に対するのも良い例です。葛原にとって童謡はあくまでも詩=芸術としてではなく、楽しい歌=音楽としてなのです。
 

 一方、ニコピン童謡に対し他者からは逆に詩的要素に乏しい、或は教育界に近いからか指導的過ぎだ、教育的だとの見方をされています。葛原の余りにも子ども達のためにの気持が強する故の空回りする部分があるのかも知れません。
 ただ、赤い鳥童謡出現以前に比べると詩の香りの増した歌詞が増えたようにも思えます。例えば「一本菫」では「学校の裏の畠の土手の 一本菫 まだ 誰も知らぬ お湯呑部屋の窓から見える 菫のつぼみ まだ 今日も咲かぬ」のように。赤い鳥童謡は、文学者の専ら詩人と言われる人たちが作詞をしています。葛原のような作詞家は童謡界にあってとても珍しいと言えるでしょう。
 

 「子どもには見えていて聞えていて感じられる世界が広がっているのに、大人にはどうも見えにくい、そんな世界を自身が子どもになって言葉にし、整えて、作り上げている」。葛原はいつも子どもと一緒にいる、そして子どもを感じている、子どもの中に入り込んでいる。葛原はいつも子どもの生の声を聞く、幼稚園や小学校の先生の生の声を聞く。これが葛原の童謡・ニコピン童謡なのでしょう。最終的には、北原白秋と同様に子ども自身のつくる詩=童謡が最高とも思っています。
 

 赤い鳥童謡の出現から暫くすると、童謡歌手の活躍やレコード童謡の盛況からより大衆化が進みます。ニコピン童謡もたくさんレコードとなりヒットします。子どもの世界にさらに童謡が行きわたるようになったと、葛原は大いに喜びます。大正14年にやっとNHKのラジオ放送が開始し、昭和5年までの6年間の子ども向け番組に流れた「子どもの歌」をNHKの資料を見て曲別に回数をカウントした人がいます。言語学者で音楽好きの金田一春彦氏です。そのヒットチャートとでもいうべき結果は、野口雨情が1位、2位は文部省唱歌、3位を葛原と白秋が競うというまぎれもない数字が出ています。
 

 「赤い鳥」創刊より7~8年前から始まる葛原のニコピン童謡づくりは、戦後もなお、郷里備後の女学校の校長として尽くしつつ果てることはありませんでした。亡くなる5年前の昭和31年、童謡生活45年を記念して出版した童謡集「雀よこい」のタイトルとなった童謡「雀よこい」の歌詞は、「雀よこい おりてこい お米をあげよう さあ お食べ ぱら ぱら ぱら  ぱら ぱら ぱら」。なんとも葛原らしいではないですか。ニコピン童謡の行き着いた先の味わいを感じさせられるのは私だけでしょうか。