「葛原しげる こぼれ話1」を載せました

《電気屋の葛原さん》 仮名遣いは現代仮名遣い、漢字は新字体にしています

 葛原さんとは検校宮城道雄を仲においてお付き合いした様な恰好であったが、実は私が宮城を知ったのは、もとを質せば葛原さんのお陰なので、寧ろ葛原さんを仲において宮城と付き合ったと言う事になる。
 宮城さんがまだ朝鮮にいた当時、明治の末年か大正の初葉の頃、私は本郷森川の帝大正門前の宮前の、細い道を行った崖上にある蓋平館別荘と言う下宿にいた。私の部屋は二階であったが、その同じ下宿の中庭を隔てた向う側の三階に葛原さんがいた。
 (中 略)
  行って見ると、葛原さんの部屋には琴が立て掛けてある。下宿住いなので暫らく琴を弾く折もなかったが、今、目の前の箏にはちゃんと弦も締まっている。むずむずとして弾きたいと思った。
 葛原さんの琴爪が丁度うまく私の指にも合った。立て掛けてある琴を横たえて弾き出した。少し引っ掻いている内に段段音色も定まり、指先に戻ってくる手ごたえですっかりいい気持になった。遠慮なく音を響かせて八重衣の手事の散らしを弾きまくった。中庭を取り巻く廊下に立てた数十枚の硝子戸が、音筒の反響盤の作用をして、下宿全館が唸り出した様である。
 その自分の音で夢中になり掛けている私の耳に、八重衣のすくい爪の間を縫って廊下を走って来る足音が、不思議な程はっきり聞こえている。だから、夢中になっている気持のすぐ裏側に、こんな大きな音をさせれば、きっとだれかが怒るだろうと薄々感じていたのがわかる。
 果して足音は帳場の女中であって、葛原さんの部屋の前に停まり、障子を開けて、試験前で勉強しているお客様が困りますから、やめて下さい、と言った。
 全くもって一言もない。
 (中 略)
 大正十二年の大地震より少し前、当時の宮城邸は牛込の市ヶ谷加賀町にあったが、邸と言う程のものではない。家賃三十五円の借家である。
 葛原さんとどこで落ち合ったか忘れたが、二人で連れ立って、或はしめし合わせて、検校を訪れる。宮城曲の「唐砧」を教わりに行ったので、つまり二人が行くのは検校のお稽古を受ける為なのだから、二日や三日では済まない。
 その度に私共は玄関から案内を乞う事をせず、往来に面したお勝手口をがたがたさせて、
 「へい、瓦斯屋です」
 「こんちは、電気屋です」と言った。
 私が瓦斯屋であった。
 葛原さんは、その時分すでにおつむりの頂上が明かるくなり掛けていたので、即ち電気屋は葛原さんであった。
 
   内田百閒.1964.「電気屋の葛原さん」.葛原先生童謡碑建設委員会編『ニコピン先生葛原𦱳追悼録』.角川書店