葛原勾当(こうとう)

 

無欲の箏の名手  驚きの勾当日記

                        葛原勾当肖像画


 

葛原勾当は文化九年(1812年)、備後国安那郡八尋村(現福山市神辺町八尋)に生まれ、本名は重美と言います。3歳の時、天然痘にかかって失明しますが、11歳で京都に上って松野検校の門に入り、生田流の箏曲と地歌を学びました。

 

14歳で座頭の位を許されると、翌年帰郷して備後や備中、備前を中心に広く教授して回り、22歳の時に勾当の位を授かり、以後、葛原勾当、勾当さんとして、西日本における名手として聞こえました。福山市で今なお箏の生産や演奏が盛んであるのも勾当の影響が大きいと言えます。

 

葛原勾当は音曲のほかに、盲目の身でありながら日記を記すために印刷用具を考案して、26歳の時から明治15年(1882年)、71歳で病没するまで、46年間も木活字を使って日記をつけています。日記と印刷用具は広島県重要文化財に指定されています。あのヘレン・ケラー女史がこの盲人の発明した印刷用具を見て、東洋のタイプライターと称して激賞したのは有名な話です。

 

また、奇跡かと思われるように保存された自ら折った折り紙を残していますが、これらには非常に優れた感性が顕れ、江戸時代の高度に進んだ技術を後世に伝える貴重な作品となっています。

 

―葛原勾当遺徳顕彰会編集・発行「葛原勾当の生涯」を参考―