「葛原しげる こぼれ話2」を載せました

《よく旅行を共にして二十五年》  仮名遣いは現代仮名遣い、漢字は新字体にしています

 ニコピン先生葛原𦱳君と知合ったのは随分古いことである。故山田源一郎先生、小林愛雄君等と楽苑会を組織し、私の第2の歌劇「霊鐘」を牛込の高等演芸館に上演する時、ニコピン先生はまだ東京高師の学生であった。当時、山田先生が高師の講師をしていた関係上、葛原君は合唱の一員としてこの企てに馳せ参じてくれたのであった。―最も古い記憶はこれである。時は明治41年頃のこと。
 それから、同君も卒業して本郷の蓋平館別荘に下宿し、私の家も本郷にあったのでよく往来した。同君が同文館に入社なせられてより、その歌に曲をつけるのが度々であったので、交際は益々密になった。
 その内、梁田貞君が音楽学校を卒業したので、3人は「大正幼年唱歌」を著作することとなり、毎週1回、雨が降っても、雪が降っても必ず会合した。初めのうちは私の家で、それから梁田君の家で、それから葛原君の家で―それが今日まで続いている。よくも続いたものと感心される。
 従ってニコピン先生と旅行することが度々であった。最も長いのは夏休みの間で、これはおもに新那須温泉であった。冬の休みや、3月の学期休みには湯河原温泉に出掛けた。但し、我々の旅行は贅沢にやっているのではなく、一年中の仕事をまとめる大事な時期であったのだ。従って二人一所に居っても、一日中殆ど仕事をした。くたびれると、どっちからもなく、「おい少し休もう」と言っては散歩に出掛けたものだ。これは今日でもその通りである。
 ニコピン先生は栗饅党である。我輩は左手組である。これだけは常に意見の一致を見なかった。しかしそれだけヴアライテイがあって面白い。しかしニコピン先生といえども二三杯は飲めぬことは無い。これが三四杯、五六杯となるとすこぶる上機嫌になって「あごがだるい」と言いだす。どうして酔うと顎がだるくなるのか、私には一向わけがわからぬ。私などは未だかって顎がだるくなった経験がない。しかし兎に角、彼氏は必ずそう言うのである。
 ニコピン先生、時にいたずらをやることがある。ある時、先生が先に湯河原に出掛けた。これは単独に出掛けたのであるから、私はそれとも知らず、一日遅れて同じ湯河原の宿に出掛けた。宿は二人とも何時でも、藤田屋に決まっていた。座敷に通ってお茶を飲んでいると、女中が「東京からご婦人のお客様がお見えになってお待ちになっております」という。どうも合点がゆかなかったが、「では、通してくれ」というと、何と、いと静かに現われましたのが、女装したニコピン先生であったのだ。女中の晴れ着を一着に及んで、手拭いで頬をかくし「今日は、お初にお目にかかります」てなことを言うのだ。この日は番頭はじめ、女中、下足番、皆、共謀してしまって、まんまとかついだものであるから、どうにも呆れた話ではないか。
 (後 略)
 

 小松耕輔.1935.「よく旅行を共にして二十五年」.原島好文編『葛原しげる童謡満25年記念 葛原しげるを語る』.日本童謡社