「葛原勾当 こぼれ話2」を載せました

《明石の浜の月夜の演奏会》  仮名遣いは現代仮名遣い、漢字は新字体にしています
 
 年に一度ずつ、彼は和船に乗って京都へ修行に出るのであったが、汐の加減で所々の浜や港に船を繋いで、汐待ちをせねばならなかった事は前にも言った。その明石の浦での汐待ちの一夕、彼は弟子の千代一と同行の呉服商人たる隣村の森蔵と三人で人丸神社へ参拝した。
 三人連は参拝を終えて舟に戻ったが、その夜の月の美しさ、船頭も森蔵も波の美しさを称え、淡路島の絵に似るのを褒める。盲人ながら月光を浴びて舷に座していると、気も清らに心も澄んで、だまってはおれなくなった。一曲弾きたくなった。森蔵も勧めるけれども、船旅する身は琴を持って来ていない。明石の町家には琴もあろうというので、船頭を借りに歩かせたが、何家にも、とやかくの理由で貸してくれぬ。その中、町はずれの小さな家の老人が「多年弾かないが・・・」と言って古い琴を一面貸してくれたので、悦んだのは船頭どころか、千代一は早速、弦も締め直して携帯していた三味線の竿を仕組んで、合奏しだした。
一曲また一曲。
なかば、物好きについて来た町人の中には、これをきいてその音色に感じて、次では人々を呼び集めて聞くのであったが、中の一人が言うには、
 「昔から、明石という曲がある事は聞いているが、その曲を聞いた事はない。もし、『明石』の曲をご存知か・・・」
と言うに任せて、「明石」を弾いた。中には、
 「昔から『弄斎(ろうさい)』という曲がある事は聞いているが、その曲を聞いたことはない。もし、『弄斎』の曲をご存知か・・・」
とも言うので、『弄斎』を弾いた。驚いた人らは船頭に聞いた。
 「一体、この盲人はどこの国の人か」
これには、千代一が答えた。
 「私共は、西の方の盲人です」
 「西の方とは、どちらで・・・」
 「なーに、西の方です。」
ときくや、中に、
 「これから西で、これ位の腕利きは、備後の葛原勾当くらいのものだが、まさか、葛原勾当ではおわすまい。」
と言うものがあったので、森蔵は覚えず大きな声で、
 「そうですよ、そうですよ、葛原勾当ですよ」
と叫んだ。
すると、浜に集まって来ていた人らの中には、先刻、とやかくの理由で琴を貸してくれなかった家の主人達の顔も見えたが、皆、
 「今夜は、私の家に泊まって下さい」
 「いえ、自分の家で、もっと弾いて聞かして下されよ」
 「なに、私の家へ」
 「実はそれよりは、少し善い琴もありますから・・・」
などなど、中々、熱心に招ずるのであったが、汐は十分に満ちていたので、船頭はかねて勾当の心持をも知っていた同国の者ではあったし、そのまま、借りた古い琴の持主には、厚く礼をして返し、浜の人らに別れを告げて、京をさして明石の浜を後にしたという。
 月は上がって高く、波はいよいよ美しく、舟中の三人三様の気持よさ。陸上に見送る人らの心の中にも、それぞれの気持よさがあったろう。

葛原しげる.1929.「葛原勾当のこと(三)完―心眼を開いていた盲人―」.『明治文化研究』.三省堂