「葛原しげる こぼれ話3」を載せました

 《 鞆の津 》

 

 私の家は、先祖の時代から広島県の鞆であった。昔は屋号を「網干屋(あぼしや)」と言ったそうであるが、父と母が神戸へ出て来て、間もなく私が生まれたので、私は神戸生まれとなっているが、自分としては、やはり先祖からの鞆を故郷のように思っている。それに子供の頃、家中がよるとさわると、鞆の言葉で鞆の話をしていたのが、今でもなつかしく耳に残っている。
 その鞆へ、物心がついてからこの年になるまでに、此度初めて帰るのである。
 鞆からは尾道まで舟で迎えに来てやると言うので、私は尾道の演奏会が済むと、夕方、長細い感じの路を案内されて、三緑荘へ泊めて貰った。(昭和27年)八月十日であったが、此処は、海辺で心持のよい涼しさであった。・・・・・

 十時に鞆から迎えに来る筈の舟が、十一時過ぎてもまだ来ない。先程から、みんなが沖の方を眺め続けていた。・・・・・
「あの向うの帆掛け舟ではなかろうか」と言うと、漁船であったり、こんな事を幾度も繰り返していた。私はみんなの言うのを聞いて、自分が見ているような気持になっていた。十二時も大分過ぎたので、お腹が空いて来た。今度はほんとらしい。舳先へ立って白い帽子を着ているのは、葛原先生らしい。そして手を振っているように見えるという。それが段々近づいて来た。みんなが、思わず声をあげた。私にも手を振れと言うので、一生懸命に振った。そして、先生は八尋村から鞆へ廻って、迎えに来たのだなと思った。
 舟が宿の直ぐ下へ着いた。先生は「やあやあ」と言いながら、私のいる二階へ上がって来られた。私の手を握った。・・・・・・

 私は舟へ抱えられるようにして乗せて貰うと、エンジンが足へひびいて来た。舟が動き始めると、岸の方から宿の人やニ三人来ていた弟子達の声がした。私はその方を向いてお辞儀をしたり、手を振ったりした。舟が速力を増して行くにつれて、窓から涼しい風が入って来る。錦水旅館のモーターボートで、遊覧船に出来ているという。それから、鞆で用意された弁当が開かれた。家内に取って貰って食べ始めた。葛原先生も隣で一緒に食べながら、しきりに景色のアナウンスをされた。お腹が空いていたので握り飯、海老フライ、蓮根、焼魚、肉の佃煮と続けざまに食べていると、喉へ詰まりそうになった。葛原先生が、「さっきのサイダーを」と言われると、海へつけてあったらしい、艫(とも)の方で瓶を引き上げる音が、チリリンと聞えた。海の上が涼しいのでサイダーを飲み干すと、お腹の底まで冷たく感じた。・・・・・

 此処から阿伏兎の観音様の楼が美しく見えると言う。私はお参りがしたいので、舟を着けて貰うことにした。・・・・・
 仙酔島の吸霞亭へ着いたのは、夕方近くであったが、海水客の声が賑やかに聞こえていた。特別に取ってあったと言う静かな部屋へ通された。・・・・・
 湯から上がると鞆の町長さんはじめ・・・大勢来られて、私を歓迎して下さる会が開かれた。・・・葛原先生は暮れゆく鞆の町が一目ですと言われた。そして弁天島、・・・皇后島などの方向を詳しく教えて貰った。・・・・・
 翌日も良い天気で、朝から海水客の泳ぐ音が聞こえていた。・・・・・
 その日の夕方、昨日の遊覧船で鞆へ渡って常盤館へ宿を取った。此処から弁天島がよく見えると言う事であった。・・・・・

 翌朝は、早く目が醒めたので、・・・それから私は南禅坊にある先祖のお墓参りをした。・・・・・
 葛原先生が、これはおじいさんの戒名で、おばあさんのは未だ名前が入っていない。ここは此度修理した所だと、私の手を持って、一々さぐらせた。私の小さい時から親がわりになって育ててくれたおばあさんが、朝鮮で亡くなる時、自分はもう一 度鞆へ帰りたかったと言われたのを思い出して、胸が一杯になった。・・・その後、本堂で・・・お経が済むと、私は多年の思いを果したしたようで、軽くなったような気持がした。
 葛原先生も、みんなもよかったなあ、よかったなあと言ってくれた。この寺をすませて、その日の午後と夜と二回、鞆劇場で一行の者と演奏会を開いて故郷の人々に聞いて貰った。そしてその翌朝、おばあさんからよく聞いていた祇園さんへお参りした。・・・・・
 それから、・・・大勢の生徒が集まっていて、私が話をすると、小さい生徒が可愛い声でお返事をしてくれるので、私はうれしい気がして調子にのって色々話したり、演奏をつづけた。
 こうして、思い出深い故郷の日は、夢のように過ぎたのであるが、私は東京へ帰ってからも、時々思い浮かべるのである。

 宮城道雄.1959.「鞆の津」.木村毅編『日本の風土記瀬戸内海・中国路』.宝文館