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「葛原邸 こぼれ話1」を載せました

 

《福山の福寿会館》

 

 福山市営の結婚式場、名も目出度い福寿会館。福山地方随一で立派なというより豪華な和風建築、手の込んだ別棟の洋館を斜め横に並べて堂々たる構え。大は八つの部屋部屋をつないだり取り巻いたりしている広くて長い縁側、厚さ一寸の松の木の板をびっしり敷きつめた長廊下。この「松の廊下」が浅野内匠頭ならぬ私にまつわる因縁ばなし。
 この福寿会館、もとは福山の特産「けずり鰹」の本舗、安部和助氏の別荘、昭和十年九月の建築。それを昭和二十八年五月、渋谷氏が譲り受けて福山市へ寄附された。
 (中 略)
 この福寿会館の日本館の縁側は、まず正面玄関の式台からはじまる。この式台、幅二間奥行三尺で、敷きつめられている板は厚さ一寸のが十三枚。【その左端の一枚だけ稍幅広いのはどうしてか】
 この式台から、すぐの玄関八畳の間に上る一段の踏板だけは厚さが二寸、幅は一尺で長さは二間もの、ただ一枚。
 この玄関の間から、左へ洋館や日本館の大広間へ鍵型に続く二間ずつの廊下の板はすべてで十五枚。中には、四尺にあまる幅のも一枚は有って、各々長さは一間ずつ。そして、それに続くのが長さ七間の縁側、三尺幅の松板、すべてで十九枚。
 (中 略)
 その用材たる松は私の故郷、福山の北東三里の八尋村の生家の門口にあったものなのである。その松、樹齢約五百年、所謂笠松で直幹十三間ばかり、頂上で大きい枝が四方に開いた中、西南へ延びた一枝はずい分長くて低く垂れていたので良く風に揺れていた。小さく見える雀のブランコがまことに面白かった。
 この松、目通り周囲一丈二尺あまり、幼時かくれん坊をしてはこの松の幹に隠れた。隠れながらに、松の皮の鱗を剝ぎとっては、さまざまの形を動物などに見立てて比べ合った。この鱗を竜の鱗に擬して、この老松のある屋敷を「老竜園」と命名されたのが、隣国備中のセキ儒坂田警軒先生で、住宅を「鶴集堂」と命名されたのは、この松に、時々鶴が来て休んだらしいから。
 (中 略)
 「五百年も大昔の大松じゃけえ、よう肥えとったに違いありませんよ。あの根を、大事に掘り出して、上手にえぐって、大火鉢にしなさらりゃよかったに。座りの善い大火鉢が出来て、末代までもの家宝になった上、子々孫々よくぬくもれましたのになあ」といってくれた。それもそうだし私の原案のように、あの根でなく幹を洞切りにして、丸火鉢を沢山造って親戚故旧に悦んで貰うのも善かったろうが、私は、この何れよりか福山の福寿会館の「松の廊下」でなくて、立派な縁側になっていることを喜ぶ。また、庭木の間に忍んでいた覆面の刺客が突き出す長槍の不安どころか、いろいろさまざまの目出度い会合のとき、いろいろさまざまの方たちのよろこびの足に踏まれ、坐られ日向ぼっこの憩いの場ともされている現代のほうが、あの松もどんなに幸福だか分からないと喜んでいる。
 (後 略)
 

 葛原しげる.「福山の福寿会館」.昭和36年.山陽タイムス 

 

※「葛原大松」の写真は当サイトの「葛原邸」に載っています