「葛原勾当 こぼれ話3」を載せました

 《「狐の嫁入り」の由来》 

 

 今年の五月上旬であったか、東京から富崎春昇氏放送で、全国に中継せられた曲、そして七月一日には尾道からも放送された曲「狐の嫁入り」は、昔し備後の葛原勾当が三味線曲として作曲したものを尾道の弟子で後の大検校(「吉野天人」などの作曲家)武内城継氏が箏に移した曲、東京で初演されたのは、本郷の仏教会館での、平井美奈勢氏の一家によった昭和初年頃の演奏会であったと思う。
 一体この作詞者は、今もある岡山市の中納言町のさる寺の隣に住んでいた狂歌師、 昼夜権耳元鐘近入道木枕痛人あぎと髭長(ちゅうやごんみみもとかねちかにゅうどうきまくらのいたんどあぎとひげなが)と名のって、きくからに皆を笑わせた人。
  (中 略)
 当時(勾当は天保時代から明治初年頃の人)、箏や三味線を習うのは大体に於いて、地方でも良家の子女であって、師匠は多くその家に泊まり込んで教えたものであり、その結婚にも時に随行して披露宴にも連るのであった。而も盛装した新婦は客人達に挨拶後で、その婚家の「しうとめ」の言葉添えで「未熟ながら一曲御聴きに入れまする」とばかり独奏独吟、でなくば、お師匠さんの「つれ弾」によって、合奏斉唱したものである。
 しかし、その演奏曲としては組歌の類はいうまでもなく、古典の類の「寂」も「味」も結婚披露の席にはふさわしからぬものが多くて、困ったこと度々の勾当は思いついて、賑やかな曲のつけられそうな歌詞として、思い切って結婚の宴席向けに「狐の嫁入り」の注文をしたものである。
  (中 略)
 このような勾当であったから、極めて楽天的であったので思いきって「狐の嫁入り」を思いついたものか、とまれ、厳粛な芸道修行の重んぜられる斯界に於て酒の席で、時にはふざけてざれ唄も繰返される時、まじめな箏や三味線曲を四角ばって畏まって弾いて唄っては、その曲の神聖、尊厳を犯し損ずるから、とも考えたものか、当時としては破格の風変わりの歌曲がものされた次第である。
  (中 略)
   そしてその演出にはかつて尾道の婦人会総会のレクレェーションとして、純白の振袖姿の花嫁が箏を弾き、男装束黒門付の花婿が三味線をひき、尺八はさしあり(ママ)、媒酌役としてまん中に位置して座った上に、その花嫁も花婿もなんと狐のお面を眉深にかぶったものである。かくて演奏が終わると媒酌人は御両人の手を取って、握手させ、花婿に花嫁を渡す仕草よろしくあって幕となり、やんややんやの大喝采のめでたしめでたしで終わった事がある。先日の尾道中継放送の演奏会の時はどうであったか。さて、その歌詞は
   世の中に冠婚葬祭の四つの禮儀あり  そが中に大礼というものは婚儀なり
 畜生道にありながら 狐は人の学びをなし まず結納の取りかわせ 方角日柄を選びたり  
 中段下段吟味して 山のめしびや三りんぼう ひょうびは格別大禁物 いよいよ日柄を取りきわめ
 そもそもその日の行列は  前箱 大傘 しょうじょう緋  六尺揃いの折鶴紋
 前提灯に後提灯  ぶらりぶらりと長き尾を  ひきもちぎらずうち続く
 嫁御は駕籠のうら若き  かづき帽子も白装束  同じ尻尾の長々と
 長道中の半ばより  晴れたる日和の村時雨  降るかと思えば照りわたり
 照るかと思えば ばらばらばらばら  実にも御狐の嫁入り日和
 程なく祠へ着きにけり  言わねど著きこんこんの  あな目出度しと祝うらん
 
葛原しげる著・『「狐の嫁入り」の由来』・「日本音楽」日本音楽社編 1951年8月