「葛原しげる こぼれ話4」を載せました

《哀しき一束の書簡》

 東京へ初めて上って高師に入った明治三十七年、私は本郷弓町の第三仮寄宿舎から大塚へ通った。その頃、お茶の水の第二寄宿舎から通う多くの交友とも、往き返り常に前後した。
 その中に貴公子然とした美男があった。輝く瞳、あかい唇。そしてその鷹揚な歩みぶり。時には快活に、いつも笑みを持って、きっと一人か二人かと、話しながら行くのを聞いて、その声の美、などに忘られぬ一人があった。その服装は、その風采に不似合いであった。制帽の型は皆のとは異なって高く、制服は古かった。そして共に羊羹色にあからんでいた。私は他の同窓の誰からも受けたことのない印象を、その日その日に受けるのであった。
 (中 略)
 はからずも、その人に接近する時が来た。大塚音楽会(高師文化部の一つ)の声楽練習の折であった。今の高師教授・文学士神保君がオルガンを弾いて、「鶯のうた」(ハラー作曲。のち『中等教育唱歌集』に出ず)の練習があった。ソプラノとバスとには唱い手が多かった。テノルはむずかしいというのでか人は少なかった。神保君は弾くのを止めて、「テノルが弱いね」とオルガン越に言った。するとソプラノから進んでテノルに入って、バスを歌うはずの私は、まだ歌えぬ私のタイムにあわぬ節を君に聞かれたくなくて、ただ後から君の気持よくタイムをとる手の指を見て、ただ立った。
 それを前後して正午の大食堂で、オルガンで六段をきくのを珍しく喜び、夕々の食後にはただ耳に知るそのメロデーをたどって苦心して、遂に完全に弾ける様になった程の親しみの六段である。多くの学友も六段のはじめの一段位はまごつきまごつき弾くものも多かったが、その時の六段はすらすらときれいに弾かれた気持よさ。立上って見ると、それは翠溪兄であった。
 (中 略)
 私の歌は友の紹介によって君に見てもらえる事になった。半紙に美しく清書した私の歌の一巻。それが君の手にあるのを学校の廊下で見た時には、私は少女の様に頬のほてるを覚えた。数日の後、その一巻が君から友を経て返された時には、講義はきかず朱の入ったこの歌巻を机の下で繰返すのであった。強いてその一巻に名を請うて「潮ざい」と墨痕鮮やかに書かれた時、その語の意を知らぬほどの私であったのである。ああ、早や昔の事だ。昔だ、昔だ。
 「葛原君もお嫁にいった姉さんとか戦死した兄さんとか、郷里のお母さんの事を歌っている様では、まだ歌にならないね」と君はいったとか。貧しい経験の私には、その語が一種の謎の様に美しく、たえず頭の中に往来するのであった。
 これから後の事は、願くは一通も無くしないでいる君の書簡―哀しき大きな一束の君の書簡―によってしのびたい。書簡は最もよくその人をあらわすを信ずるが故に、履歴などもかかぬかわりにしたいのである。
 (後 略)

葛原滋(𦱳).1913.「哀しき一束の書簡」.前田純孝著 葛原滋(𦱳)編『翠渓歌集』